台湾屏東線の鎮安(Zhen'an)駅は1時間~1時間半に一本の普通列車(区間車)が停車する無人駅である。2017年の日平均乗車数13名とのことで、利用客は少ない。周囲は数軒の民家や畜産施設があるくらいで、果樹園に囲まれた農村地帯である。
内獅駅から乗車した3514次潮州行き区間車はガラガラであった。途中の枋寮駅から多少の乗車はあったものの、1両あたり10名もいない状態で北上していく。
機関車の次位には荷物室を備えた電源車がつながれており、客車側から荷物室を見ることが出来た。ネット上の情報を調べるに乗車した3514次区間車は現役の荷物輸送営業列車のようで、荷物室には3つの物品があった。
荷物室の中央に鎮座していたのは、車内物品輸送とおぼしき金属の箱と、スターバックスの紙袋。これらはセットなのか、一緒にされていた。スターバックスの紙袋はコーヒーとも思えず、何だか気になってしまう。
もう一品は自転車。自転車を輪行袋に入れずとも列車で移動できるというのは素晴らしいシステムだと思う。輪行は自転車をしまう手間がかかる上に、スペースを大きくとってしまうのだ。
列車は目的の鎮安駅へと到着した。先頭付近には2両の機関車と電源車が連なっていて、連続してディーゼルエンジン音が轟いている。
電源車の後ろ側に目をやると、荷物を意味する「行李」という文字が見える。まさにこの車両が日本で言うマニ・カニに相当している。
私とJ氏を下ろした区間車3514次は、客車列車らしいジェントルな加速をしながら潮州へ向けて出発していった。
真っ直ぐに伸びたプラットフォームは6・7両分の長さはある。使われなくなり、線路が剥がされた対向ホームは、ここから支線が分岐していたことを伺わせている。
ホームから線路越しに目をやると、たくさんの白い鳥が確認できた。これはどうやら養鶏場のようだ。
駅の上屋は鉄骨造である。見た目からして、昔からのホーム上屋がそのまま現役で使われているようだ。
駅の入り口からホームには多少の距離がある。ここには昔側線などがあったのだろうと想像する。現在使われているホームは、過去には島式ホームとして1面2線の役割を担っていたのではなかろうか。
駅前を走る道路は、南北に走る線路と平行している。北側に目をやると、建物は一切見当たらない。宮脇俊三先生の描写には”広々とした水田や溜池のなかの閑散とした駅であった”とある。当時から家屋などは少ない駅であったことがうかがえる。
南側には畜産施設を備えた建物がある。動物の声からすると養豚場のようだ。
駅の南側に出ると踏切があり、その脇には小さな建屋が備わっている。踏切保安係がここで安全確認をしていたのだろうか。
やがて踏切が鳴動し始めると、南行き自強号がやってきた。優等列車らしく颯爽と駆け抜けていく。
踏切のそばには、東港線の線路がそのまま残っていた。レールバイクなどでそのまま観光転用できそうな気配である。東港には大きな魚市場があり、また景勝地の琉球嶼へ向かう船が発着するなど旅行者の興味をそそる町である。東港線が現役だったら、とついつい思ってしまう。
東港線の線路は、本線へ接続する直前の部分だけ剥がされている。この部分以外は良い状態で残っているので、廃線でなく休線ではないかと勘違いしそうになる。
2016年10月27日の自由時報によると、屏東県政府がこの東港線の復活を検討している模様だ。鉄旅好きとしては、この線路が光る日が来ればなどと、ついつい期待してしまう。
乗車予定の区間車潮州行きに乗るため、駅へと戻る。鎮安駅は東港線廃線跡など見所があり、1時間の滞在時間は瞬く間に過ぎていった。やってきたのは、自強号に使用されるディーゼルカー。乗車したのは私とJ氏のみであった。
自強号でないことを示すためか、窓にはわざわざ区間車を示す張り紙が貼ってあった。日本にも特急用車両を使用した普通列車がそこそこあったのだが、今は随分と減ってしまった。過去には東京7:24発伊東行き普通列車に185系が使われていて、何度もお世話になったものだ。
空調の効いた車内で快適な座席に身を任せ、潮州駅へと向かった。
過去には支線の東港線が分岐する駅として機能し、1940年に開通してから1991年まで旅客輸送がされていた。1980年6月8日に宮脇俊三先生がこの駅に降り立ち、鎮安駅の助役さんと日本語で会話をした後、ここから当時現役の東港線に乗車されている(台湾鉄路千公里)。いまは無人駅となり、駅舎は無いものの、風情のあるホーム上屋と東港線廃線跡を見ることができる。
空調の効いた車内で快適な座席に身を任せ、潮州駅へと向かった。
※J氏撮影の写真(Picture from J氏)の使用、転載はお断りします。